アフリカ竹取物語

ケニアで竹の研究をしている院生の記録

理想の研究者

文献調査を開始して、ナイロビの役場関係を回っていると、コンサルやNGOで森林プロジェクトに関する仕事をしている日本人に出会うことがある。

そういう人たちの集団には高確率で協力隊出身者がいるから、「何年度何次隊?」という会話から簡単に親近感を感じることが出来る。

 

私は協力隊のときは、常に任地に引きこもってしまっていてあまり協力隊と交流を持っていなかったけれど、今になって元協力隊ネットワークの恩恵を受けることが出来た。協力隊でよかった!

 

さて、そんなコンサルやNGOで活動する日本人はプロジェクトの作成から現場での活動までの予算を獲得し、現地の住民や企業、政府と協力して実施するという現実的な行動をしている。

その人たちの話を聞いていて、私が感じるのはアカデミックな現場とのギャップである。

 

例えば、私の所属する研究室でたてられる研究計画は、環境系だから「○○への貢献」というなんらかの一助とすることを目的としている研究が多い。それは大変素晴らしいことだし、これまでにないデータであれば人類の知見として論文にする価値があるだろう。

それでも、直近の問題を解決手立てとしてツールとして研究結果を利用しようと考えたとき、現場で必要としている情報と研究室の研究者が論文執筆のために行った研究では齟齬があるのではないかと思う。

 

現場の人間と話をしてから、大学のゼミを振り返るとパワーポイントのフォントや見易さに関する指摘だったり学術用語に関する指摘が多いのに対して、成果を利用する人間の顔が明らかにならないのに対してあまり質問が飛ばない。特に、その成果利用に必要な予算に関する質問はかなり乏しい印象を受ける。

 

環境分野であるからこそ、問題は多い。しかし、現状では本当に解決すべき問題をつかみきれていない気がする。

 

私はこのままケニアで竹の研究を続けることは可能だけれど、博士課程までケニアの竹の研究を続けて何になるのだろうか?

ケニアの自生竹の研究者として第一人者になれるかもしれない。いくつかの論文を発表できるかもしれない。竹マニアにはウケるかもしれない。

でも、その研究は自己満足研究に過ぎないのだろうか。

 

ケニアの竹の生態を理解すれば竹を利用する人が増えるのか?そもそも、そんなマニアックな論文を読む人が多いとは思えない。アカデミックな視点で見れば、生態学としての価値がある?でも、それこそ生態学者のマスターベーションだ。

そしてそれは一般人が見て面白いと思えるわけでもない研究だ。と思う。

 

大学の研究室では、論文を多く発表するために、とにかくデータをとって論文としての背景等のストーリーは後付で書くという流れが存在している。確かに、その考え方は、研究者として業績をつむためには合理的である。なにより、研究者は業績(論文の本数や影響力)が重要である。

 

しかし、インターネットが発達し一般人が簡単に情報にアクセスすることの可能になって誰でも専門家になれる現在、私にとっての理想の研究者像は業績とは別の点に重きが置かれているのではないかと考える。

何が言いたいのかというと、一般人が触れることの少ない論文よりも、大衆が求めている問題を解決して分かりやすく説明することの出来る人、もしくは研究をあくまでPDCAサイクルの中のツールとして活用できる人である。論文が目標ではないし、論文である必要がないと思う。

 

私は世界で森造りをしたい。

そのために、私の理想とする研究者としてこの人生を生きたいのだ。

そこで迷っている進路は以下の4つ。

 

1:このまま博士課程に進学して研究を続ける。

→頑張れば30歳までに博士課程を修了して晴れて研究者になれるかも。でも、今の博士論文は単に量産論文になりそう。卒業までと割り切ればいいけど、私の理想とする研究者像ではない。というか、背景後付でケニアの竹だけ研究しててどこに就職できるのか謎。

 

2:一度コンサルかNGOで社会経験を得てから問題を明確化した上で博士課程に戻る。

→現場での問題解決ツールとしての研究が出来るかも。それが投稿雑誌やアカデミック界が求めているものと一致するかは不明。それでも、私の理想とする研究者像に近い。

 

3:もしくは社会人になって社会人博士か論文博士をめざす。

→体力と精神力勝負。そもそも、社会人になってからの忙しさが未知数。それでも、現場での問題解決手段として研究を使うことが出来る。私の理想とする研究者像である。

 

4:博士取得に拘らず私の目指す研究者像を追い求める。

→論文発表に拘らずに、個人として調査研究を行う。社会人になった場合は、社会人博士や論文博士よりも時間的・精神的余裕が持てそう。まさに私の理想とする研究者像だが、論文発表が少なく博士取得がないと世間一般的には研究者として認めれらない。自分の哲学を貫き通せれば研究者版ブラックジャックになれるかも。

 Image result for ブラックジャック

 

 本当は、修士とか博士のうちは論文をちゃんと書く練習をしておいて

卒業してからちゃんと論文の書ける研究者として活躍できるのが理想なのだろうけど・・・その方法1を上でがっつり否定しちゃっているように、そのキャリアは憂鬱でしかない。

 

こんな夢ばかり語っているけれど、

今の私は協力隊やバイトで貯めたお金と親からの援助、獲得した研究費を切り崩しながら、京都の月1万円の下宿かフィールド(S君宅)で生活している。そんな収入と住居が不安定な生活している学生(26歳)って立場は日本の世間一般からみたら既に異端なのかもしれない。

 

 

 

レター文化

はやくフィールド調査へ行きたいのだけれど、フィールドで使う車が故障してしまったとのことで

ナイロビの役場関係をまわって文献調査を開始してみた。

 

ネットではアクセスできなかったし、論文でも見られなかったけど

意外とケニアの森林計画が地方ごとにまとまっていたりして、ある意味フィールド調査以上の収穫。

 

ただ、データの信憑性は謎。公式な書類だから疑っちゃいけないんだけどね。

 

 

ただ、どこへ行ってもレター、レター、レターの提出が求められる。

つまり私の身分をやりたいことをちゃんと公式文章にしてボスのサイン付で提出しろというもの。

 

ケニアの大学の指導教官に頼んだら、来週まで出張だから待ってくれとのこと。

そこで、一か八かで日本の大学に頼んだらなんと翌日にはPDF化したレターが送られてきた。

 

さすがJAPAN。

 

原本が送られてくるのはまだ先だけど、なんだか文献調査は滞りなく進められそうな予感。

 

この調子で、スパイだと疑われずに調査地の地図と空中写真も手に入れたい。

 

 

 

こんにちは赤ちゃん

5月31日にS君の弟(スーパーしっかり者)の赤ちゃんが産まれたとのことで会いに行ってきた。


私は産まれて一週間足らずの赤ちゃんに会うのは初めてだった。赤ちゃんの小さな指や耳や鼻を見るのは初めてで、触ると壊れてしまいそうで怖かったけれど、顔を近づけると髪の毛を思いっきり引っ張られて逆に壊されそうだった。


日本からお土産で持ってきたボタンを押すと音が鳴る絵本と夏祭り用ベビー服やらは大人には好評だったのに、肝心の赤ちゃんは私からのプレゼントを見て号泣。

赤ちゃんは意思の疎通も無理だし、理解不能だけれど、それでも家族にとっては無条件に愛情を注げる存在って不思議だ。自分もいつか子供が出来たら上手く世話をすることが出来るのか不安だ。

(2017年6月10日)

なさけない家出

S君の家には常に人が沢山いる。

そして、お互いにプライバシーを気にしていないので常に大音量でテレビをつけたり

大声で話したりをしている。

 

それがケニアでは普通なのだろうし、特に気にしたくはないんだけど・・・

 

自分がその環境に身を置くとなったら、ちょっと話は別である。

 

落ち着いて本も読めない。

 

 

そんなわけで私はイライラしていた。

S君は基本的に猫みたいなので、私の隣にべったりくっついてくる。

かわいいけれど、本を読んでいる私の横でスマホのゲームをやるのはやめてほしい。

私が「音量下げて。」とお願いすると「一番音量小さいよ?」と言われる。

「でも、うるさい!」と言うとS君は徐にいとこが見ていたテレビを消した。

 

・・・テレビの音はまだ遠いから気になっていなかったのに、というかコレ完全に私が悪者。

家族団らんの場クラッシャーやん。。。

 

 

私はあからさまに機嫌が悪くなってS君にキレた。

おもわず私の口からは「日本で働きたいって言ってるけど、ゲームばっかやってるよね!仕事探したの?日本語勉強したの?S君が外国で働くのなんて無理だよ!」みたいなことが出ていた。

 

豆腐メンタルのS君はかなりショックを受けたようだった。

S君のタイプは、皮肉を言われて這い上がるタイプではない(と思う)。属性としては内弁慶ニートだ(と思う)。

 

あまり彼は努力できるタイプに見えないから、S君が日本で働くことは夢のまた夢のような気はしているけれど、本人の夢なのであれば応援はしたい。それに夢は変わりえるものだし、目標を持つことは人生を豊かにする。

 

私がS君に暴言を吐いた後、S君は私を無視するようになった。

交渉の余地もない。

 

私は心底S君とS君の家の環境にイライラしていたので、翌日、S君が留守の間に荷物をまとめてホテルへ移動した。宿泊費はかかるけれど、今はメンタルマネジメントが最優先だ。

 

 

ホテルでは久しぶりにシャワーを浴びて大きなベッドに寝転がったり小説を読んだりしばし久しぶりのお一人様タイムを満喫した。

 

やっぱり、一人っ子として育って、一人暮らしの長い私は一人の時間が最高なのだ!

VIVA一人!一人は至高!!今私はストレスフリーだ!!!

 

 

そんな時間を過ごしたのも束の間、S君からの電話が鳴る。

出ない・・・という選択肢もあるのだけれど、豆腐メンタルのS君をちょっと可哀想と思ってしまう私はきっとだめんずうぉ~か~。

 

私が急にいなくなったことを知り、電話先でパニックを起こしていたS君は約一時間後にホテルへやってきた。

 

やってきたけど、ムスッとして口を開かない。そして、ホテルのフェンスを蹴り始めた。

こちらとしてはケニア人男性がキレてフェンスを蹴っているビジュアルはかなり怖い。

 

この後、落ち着いてからS君と文法の崩壊した英語とスワヒリ語と日本語を投げ交わす喧嘩を数時間して、なぜか私が号泣してS君に慰められるという不本意な結果になった。

 

結局、何も言わずに家出をしたことでS君の家族も心配しているということで週末明けにとりあえずS君家に出戻りした。

 

 

私は研究者である前に、悲しいかな、ひとりの20代の女なのだ。

1人で強く生きて生きたいけど、誰かに傍にいてほしいし、論理的思考で生きていたいけど、感情を爆発させたくなったりもする。

 

2016年6月9日

ベトナム日本料理in Kenya  

 

ケニアに暮らしているベトナム人の友人Cさんがランチに招待をしてくれた。

Cさんの旦那さんはイギリス人で、ナイロビで働いている。

私は、去年の11月にナイロビ日本大使館のイベントで彼女と出会い、今年の3月の彼女がボランティアをしているチルドレンズホームへ遊びにいってきたのだ。

 

 

初めて行った彼女の家は、住民の8割が外国人であろう超高級マンションだった。

いや、肌の色が違う人種がナイロビで安全に生活をしようとしたら高級マンションが一般的である。

 

 

彼女はナイロビで購入したという蕎麦をご馳走してくれた。だしはベトナム風であっさりとしていて美味しかった。私は、Cさんのキッチンでだしまき卵を作った。

 

アジアの食事はアジア人の胃腸に優しい。ケニアへ来てから常にガスが溜まって苦しい状態のお腹が喜んでいた。

 

 

Cさんはチルドレンホームのボランティアでケニア人と上手く活動が出来なくてかなりストレスがたまっていた。

 

Cさんはチルドレンホームの空き時間に情操教育を促すために絵画の時間を設けることを提案したという。ケニア人の同僚も賛同してくれて、役割や準備すること等も決めたという。

しかし、実際にはCさんが一人で活動を展開することになっているという。さらには、同僚はボランティアのCさんに給料を出すように交渉。Cさんが「私は一生ナイロビに住むわけではないし、ボランティアだからお金は渡さない。みんなで絵画の時間を運営してほしい。」と話すと「(自分の)子供が小さいからお金が必要だ。子供が病気だ。」と訴えられたという。

Cさんは、そんな同僚に対して心底疲れていた。そして、子供がいればお金が必要になることは予測可能なのに、その日単位でお金を稼ごうとしたり、計画的でない(それが嘘であったとしても同情出来ない嘘)人生設計や、目的の見えないチルドレンホームの運営に困っていた。

 

なんだか協力隊時代を思い出す。私も、Cさんと同じだった。ひどいときは、植民地時代に白人が残した文献に記されているように現地人は知能が低いという文面はあながち間違っていないのではないか?と思った差月主義者的考えを持ってしまったこともある。その考え方は私のケニア人に対する愛想を悪くし、他人に会うことを拒絶する引きこもりに追い込んだ。

人間、ストレスに苦しめられると残酷になる。他人にも、自分にも。

 

ただ、今研究者という立場からケニア人の特性をみると人間として実に合理的な生き方をしていると感じることもある。例えば、アフリカという風土の中で生きている限り絶対的な未来は存在しない。アジアでは考えられない飢餓や病気が渦巻いており、かつては大陸の中には多様な部族が別々のコミュニティで暮らしており、部族間の衝突も珍しいことではなかった。現在でも、交通事故や病気で急に命が絶えることは決して珍しいことではない。

 

湿潤な大地で長きに渡って農耕を繰り返してきたアジア人からすると、三日坊主な就業態度や有言不実行な態度は信頼できないと思ってしまう。少なくとも私はそう思っていた。

 

私たちアジア人は、ケニアへ来て「もっと、こうすれば良いのに・・・」と思う点を見つけ出すことがよくある。でも、あくまでそれは「私たちの環境では」の話だ。

 

私たちにとって、ケニア人は信用できないように見えてしまう人がいるかもしれない、計画性のなさを感じてしまうかもしれない、もっとマクロで見ればエイズだって小児死亡率が高いことだって私たちにとっては問題として捉えられてしまうかもしれない。

 

でも、それはあくまで外部者が「問題」として捉えていることであって、ケニア人にとっては「日常」に過ぎないことだと思うことがある。その証拠に、人類が誕生してから人間はずっとこの地で生きているからだ。人間の目的は、GDPの向上でもなく、安定な収入を得ることでもない。生物としての人間の目的は命の存続だ。ケニア人はそれがしっかり出来ている。少子化の日本とは違って、みんな子沢山だ。

 

 

アフリカの大地で個人の未来に投資することはリスクの多様性から見て、リアリティが少ない可能性がある。部族コミュニティの中で生きてきた歴史を考えるとよそ者と信頼関係を築く必要性は低いのかもしれない。その一方で、短期的スパンを生き抜いて多くの子孫を残すことはよっぽどリアリティが高いことなのではないだろうか。

 

 

きっと人類存続のためにケニア人から私たちが学べることは沢山あるはずだと思う。

Cさんの絵画の時間が、この後どうなるのかはわからないが、Cさんも同僚も子供たちも全員が異なる価値観を持っているはずなので、どこか落としどころに落ち着くか・・・残念ながら活動そのものが消失するというのが行き着く先のような気がしてならない。(元協力隊の勘)

 

 

なんくるないさ

 

2017年6月14日

妖怪研究者と会う

(ネット環境が悪かったので書き溜めていた記事です)

昨日また、ナイロビ学振オフィスへ行ってきた。
たまたま近くで予定があったので、そのついでに時間があれば借りていた本(きりひと賛歌)を返そうと思ったのだ。


この一週間、研究に対する精神的に焦る気持ちとケニアに適応しきれないまどろっこしさでアウトプット作業やフィールド調査準備がままならないでいた。
だからこそ、学振オフィスのような小ざっぱりとした空間で少しでも作業を進めたかった。


学振オフィスの図書室に入ると日本人が作業をしていた。前回は日本人に会うことがなかったので驚いたが、話してみるとなんと学振オフィスの所長というお偉い方だった。


そして、なんと私がかつて協力隊として赴任していた地域の部族研究をしていたということで大いに盛り上がった。しかも研究対象は妖術と妖怪。かなり興味深い。


光栄なことに、先日、所長がフランスで公演してきたという水木しげるの漫画を用いたフィールド調査手法というスライドも見せていただいた。これまでいろいろな研究を見てきたけれどこんなにオモチロイ研究を見たのはいつぶりなんだろう。大学で面白い研究に研究費を出す京大おもろチャレンジという企画があるが、その企画なんかより断然オモチロイ!!!


日本をバックグラウンドとして戦時中に南方へ出向いて集められた水木しげるの妖怪大全の漫画をアフリカの聞き取り調査で使う(詳しくはひみつ)という斬新な研究法を聞いて、未知なものにチャレンジしたいという研究者心がはしゃいだ。


ケニアの竹の研究でも似たような手法を使うことが出来ないだろうか?
調査地域の竹に関する伝承や利用を調査する上で、所長の手法の真似事が出来るかもしれない。というのは、前回の調査中に調査地域のグループリーダーがキクユ語で「竹と風が歌っている~♪」と歌を歌っていたのだ。当初、フィールドワークに不慣れだった私は住民グループに面と向かって竹の伝承や利用を聞き「竹に関してはわからない。」と言われていただけに、この歌は衝撃であった。
リーダーに話を聞けば、即興ではなく昔家族が歌っていたという。私は現在、調査地には竹に関する理由や伝承があると仮説を立てている。それはこの歌から判明したように、おそらく住民は、普段竹を意識していないだけで実は竹に関しての何らかの見解を持っていると考えているからである。そもそもこの土地は竹林地帯なのだ。


さて、結局この日は学振オフィスでパソコンを開くことなく所長と話をしただけであった。
しかし中身のある話であったし、私としてはかなりの大収穫であった。
ずっと一匹狼の研究者として調査をしてきたけれど、オリジナリティを高めるためには一人でいるんじゃなくて、異分野の研究者の人ともっと関わらなきゃダメだ!

2017年6月14日

コミックでわかるアドラー心理学

日本滞在中に読んだ本の備忘録(現在手元に本がない状態で記憶を頼りに感想を書きます。)

 

協力隊から帰国した2015年くらいからちょくちょく書店で目にするようになったアドラー心理学。名前をよく見にするだけに興味があったものの、なかなか手に取ることが出来ずに早数年。

 

実家の近くで母親と待ち合わせをしているときに、こんなものを購入してしまいました。

 

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Amazon CAPTCHA

 

20分くらいでサクッと読めて、コミックもなかなか面白かったです。

でも、アドラー心理学についての説明は基本的に文章ページでの解説で、図解による解説はほぼなかったのが残念。でも、文章ページも簡潔で読みやすかったです。でも、「コミックでわかる」ってタイトルとはかけ離れてきてるけど。

 

コミックのあらすじは、様々な問題を抱えた人が暮らすシェアハウスが舞台。そこに暮らすアドラー心理学に詳しいイケメンがみんなをポジティブ思考にするカウンセラー的な役割をするというもの。

 

つまり、コミックからわかることは「イケメンは正義!」ということであった。

 

この本から私が掴めたアドラー心理学は、トラウマ克服や周囲の環境を改善するためには・・・因果律ではなく目的論で考えようということ。

 

例えば、「彼氏が他の女の子と遊んでた!ムカつく~!」と言っている女の子がいたとして、

「それは、あなたの男を見る目がないんじゃない?というか、どんな風にいままで彼氏と接していたの?ちょっと前のことを思い出してみようよ・・・。。」と過去に遡って現状を考えるのが因果律

「あなたは女の子と遊んでいた彼氏にムカついているんだね。そんな感情になるってことはまだ彼氏のことが好きなんだね。あなたの目的は彼氏とラブラブになることなんだね。」と現状の感情から目的を推測するのが目的論らしい。

 

今、本が手元にない状態で記憶だけを頼りに書いているから間違っていたらアドラーさんに申し訳ない。

個人的には、他者との関わりを考える上で因果律と目的論の2つの視点を持っていたいと思う。多くの視点で物事を見るほうが、より客観的に冷静に観察ができる。

 

その他にも、アドラーさんは人間の目的を明確化したり幸福についても分析をしたらしいことも書かれていたけれど、その辺の印象は既に希薄。

 

結論として、コミックでわかるアドラー心理学を読んだら、次はコミック版でないアドラー心理学の本を読みたくなった。

 

そして、イケメンは正義。